裏側からみた『ゆめふる成田』への想い
昭和54年(1979年)に千葉県自閉症児・者親の会連合会に「年長児部会」が誕生し、昭和56年に親亡き後を考えての入所施設建設を目指す「施設部会」へと発展した。
施設づくりと言えば、それをめざす集団の結束力、資金、建設地などをはじめたくさんの
難関がある。わが子の為に施設をつくらねばという思いは、保護者達の団結には充分すぎる目的であったが、資金や用地の確保は大変であったと何度もお聞きした。
あるお父さんは、資金作りに踊りのチャリティショーを開催した。妻がざるをもって客席を廻り資金の寄付金を募ったという。妻にそんなことをさせているのが辛かったという。
土地を提供してくれた山倉さんとの出会いは、神様のような方との出会いであった。しかし、地元の方に理解を得ることに苦労したとも言う。その当時、千葉県には入所施設が4ヵ所しかない時代(現在は、60ヵ所を超える)だったので、すんなりと理解を得られないのもやむを得なかったのかもしれない。
当時の不足する資金分の融資を受けるために、保護者の一部は自宅を担保に提供したという。次から次へと出る難問を乗り越え10年の歳月を要し、ついに昭和62年「社会福祉法人 菜の花会」は認可され、昭和63年しもふさ学園が開園された。
開園されたからと言って終わりではなかった。わが子の住むしもふさ学園の環境を良くしようと、施設周辺のやぶ刈りや植林の奉仕作業は毎月のように行われた。また、職員不足を少しでも補えられたらとお母さんらを中心に清掃ボランティアも行われた時期もあった。
今ではありえない話であるが、建設時の借入金の返済金や、職員を増員するための費用のために、保護者会全員一致のもと菜の花会後援会に毎年多額の寄付金が届けられた。
あれから33年経て、菜の花会は、わが子だけの福祉だけではない社会福祉法人として大きく成長した。グループホーム9ヵ所、通所施設3か所140名、児童ディ2か所、そして、千葉県から千葉県発達障害者支援センターの運営を委託されることにもなった。
今回のゆめふるプロジェクトは、菜の花会が更に地域福祉を担い成長するための総合的なプロジェクトであるのだが、そのプロジェクトを思う時必ず湧き上がる思い出の数々がある。菜の花会の成長やしもふさ学園の充実を願いながらお亡くなりになった保護者の方々のことである。
『お父さん、息子さんは学園で元気にやっていますよ』と病室で声をかけたら、顔を赤らめ小さく嗚咽したお父さん。
『私が亡くなったらあの子どうなるのかね』お父さんが3年前亡くなり、そしてお母さんも末期の癌に。病床から私に尋ねた言葉。
辛いことだが、保護者の平均年齢が80歳を超え、毎年保護者の方々とのお別れがある。だからこそ、保護者が元気なうちに一日でも早く見せてあげたい建物が、「ゆめふる 成田」なのである。全国どこにもないような自閉症の方のバリアフリーの建物を建設する。
『この法人を立ち上げておいてよかった。うちの息子は、これからももっともっと幸せに暮らすにちがいない。』
ここで暮らすわが子への夢をたくさん、たくさん見て欲しいのである。
(理事長)